電車が結ぶ夢と日常――小林一三が描いた「文化のある暮らし」

街と歴史

小さな電車がめざすのは、夢と文化が息づく街――。

阪急の創業者・小林一三が「理想の暮らし」を託したのは「郊外」と「家族で楽しめる娯楽」でした。

私鉄経営のモデルを築いた小林は、鉄道を軸として住宅地や観光地を開発し、さらには宝塚歌劇をはじめとするエンターテイメント文化をつくり出します。

その「はじまりの物語」をたどってみましょう。

1.郊外の夢は電車にのって

宝塚市内を走る阪急電車
宝塚市内を走る阪急電車

1-1.人口集中が生んだ郊外志向

今では当たり前の「電車で郊外に住んで都心に通う」というライフスタイル。その始まりが100年余り前にさかのぼることをご存じですか?

明治末期から大正・昭和初期にかけて、大阪・東京などの大都市では人口が急増。住環境の悪化が深刻化していきました。

そこで、都市で働くサラリーマン層――会社員や教員といった人々が、 生活の場を郊外に求めるようになりました。

1-2.「電車で通う」暮らしの始まり

こうした変化に合せて発展したのが、都市を拠点とする電鉄会社です。

それまでの鉄道(SL中心)が長距離輸送や貨物輸送を中心としていたのに対して、電鉄会社は日々の通勤・通学・行楽など、近距離の「人の移動」を重視するビジネスモデルを築きました。

1-3.電車がつくる、新しい生活

とはいえ、まだ人口が少なかった郊外地域では、駅を作っただけでは乗客は集まりません。

そこで私鉄各社は自ら 「人を呼び込む仕掛け」=観光地や住宅地などの沿線開発 に力を入れていきました。

その先駆けが阪急電鉄です。

そこには鉄道の枠を超えて「まち」や「文化」そのものを生み出すという、画期的な発想がありました。

2.暮らしと文化をつくる実業家、小林一三

小林一三の銅像
小林一三の銅像(宝塚大劇場前)

2-1.夢に向かって出発

阪急は開業時の社名を「箕面有馬電気軌道」といいました(現在の宝塚本線と箕面線)。

当初の計画は、大阪梅田を起点として箕面、および有馬温泉を結ぶというものでしたが、山岳地帯を越える有馬温泉までの鉄道建設には多くの資金を要したため、大阪平野が尽きる宝塚が終点になりました。

このことが、宝塚の文化的な発展につながります。

2-2.鉄道だけじゃない、「暮らし」を売る発想

当初「遊覧電車」として企画された箕面有馬電気軌道。

沿線には箕面の滝や寺社、明治時代半ばに開発された宝塚温泉といった観光資源があるものの、沿線人口は少なく、経営は危ぶまれていました。

そこで専務取締役(実質的な同社のトップ)に就任した小林一三(こばやし いちぞう、1873-1957)は、鉄道だけでなく「ライフスタイル」をつくるという斬新なアイデアを生み出します。

それが「鉄道+住宅+娯楽」を一体的に整備する、いわば「三位一体」のモデルです。

参照:『宝塚市史』第3巻, 193-197頁(たからづかデジタルミュージアム)

2-3.文化を仕掛ける実業家・小林一三

小林一三(以下、一三と表記)は山梨県生まれ。

三井銀行(現・三井住友銀行)勤務を経て、箕面有馬電気軌道の経営に参加し、実業家、さらには政治家として幅広く活躍しました。

一三は、学生時代には作家を志しており、実業家になってからも文学・芸術への強い関心をもち続け、「逸翁(いつおう)」という雅号で、俳句や茶の湯もたしなむ文化人でした。

さらに宝塚歌劇や東宝、プロ野球の「阪急軍(後の阪急ブレーブス)」の創設にたずさわるなど、新たな都市文化を続々と生み出していきます。

参照:阪急文化財団「小林一三について」

参照:山本睦月<第100回 国際ARCセミナー(仙海義之氏)レビュー> 小林一三 ─社会事業・文化事業をビジネスの両輪に

2-4.電車が運んだ、理想の暮らし

一三は鉄道敷設とともに、池田室町住宅に始まる沿線郊外住宅地を開発しました。

大阪市のホワイトカラー層に、自然環境の良い郊外から電車に乗って通勤するという新しいライフスタイルを提案したのです。

サラリーマン向きに、月賦払い(分割払い)で購入できることも画期的で、多くの人々が郊外生活の「夢」を手にしました。

阪急電鉄「様々な生活文化を創り出したアイデアマン『小林一三』」

一三と阪急の郊外開発については「郊外はこうして生まれた」の記事もご覧ください。

2-5.家族で楽しむ郊外レジャー

観光開発についても見てみましょう。

1910年、電車の開通に合せて日本で3番目の動物園として「箕面動物園」が開園しました。

翌1911年には宝塚駅のある武庫川左岸に「宝塚新温泉」を開業し、しだいに食堂などの施設も充実していきます。これは後に劇場、遊園地、動植物園などをそなえた総合レジャー施設へと発展します(後の宝塚ファミリーランド)。

家族連れを重視した娯楽施設の整備は、のちに歌劇が生まれる「舞台背景」ともなったのです。

参照:ホテル若水「近代宝塚温泉の発見と黎明期2」

3.歌劇の幕が上がる

宝塚大劇場と阪急電車
宝塚大劇場前を走る阪急電車

3-1.冷たいプール、転じて…

宝塚新温泉に1912年に開設した屋内プール「パラダイス」。

このプールには水を温める設備がなく、男女混泳も禁止されていた時代でもあり、人気が出ませんでした。

しかしこの失敗が新たな文化につながっていきます。

3-2.宝塚歌劇、ここに誕生!

屋内プールの活用策を探った一三は、ここで出し物を行うことを思いつき、大阪三越の少年音楽隊にヒントを得て、少女たちからなる「宝塚唱歌隊」(数ヶ月後に「宝塚少女歌劇養成会」と改称)を結成します(1913年)。

翌1914年、「パラダイス」屋内プールを改装した舞台で少女歌劇の公演が始まりました。

参照:『宝塚市史』(第3巻)264-266(たからづかデジタルミュージアム)

湯の街の小さな劇団として始まった少女歌劇は、一流のスタッフの参加や、一三自身の脚本執筆など、手厚いサポートを受けながら、「家族で楽しめる娯楽」として成長していきます。

参照:J-Net21「『小林一三(いちぞう)』希代の遊び人事業家(第4回)」

やがて一三は、歌劇の東京進出にともない都心に劇場街を形成し、さらに東宝映画の設立へと歩を進めました。

現代の私たちにとっても身近な、一三が遺したエンターテイメント事業。その礎となったのが、「冷たいプール」から生まれた宝塚歌劇なのです。

まとめ:100年後の「夢の街」

阪急沿線の暮らしや文化の原点は、今から100年以上前の構想にさかのぼることができます。

鉄道・住宅・娯楽が三位一体となったこのモデルは、現在に続く「郊外のライフスタイル」を形づくるものでした。

沿線や大阪はもちろん、全国から「非日常」を求めて人々が訪れる宝塚。

そこには、100年前に一三が描いた「線路の先の”夢”」が、今もなお息づいています。

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