郊外はこうして生まれた――阪急と暮らしのモダニズム

街と歴史

かつて「郊外」とは、田園地帯に出現した「理想の暮らし」の舞台でした。

鉄道とともに生まれ、発展していった日本の郊外創生期を、小林一三と阪急の取り組みからたどってみます。

1.郊外ってどこだろう

阪急宝塚本線の車窓風景の写真
田園風景を残す阪急宝塚本線の車窓

1-1.郊外=田園地帯?

私たちが何気なく使っている「郊外」という言葉。ではその定義は何でしょう?

郊外の定義を「コトバンク」で調べてみました(郊外)。

「デジタル大辞泉」「精選版 日本国語大辞典」ともに、まったく同じ文言で「都市に隣接した地域」とあります。

それとともに、「市街地周辺の田園地帯」(「デジタル大辞泉」)、「市街地に隣接した田園地帯」(「日本国語大辞典」)という定義もされています。

阪急電鉄創業時の郊外はまさにこの、「都市部に隣接した田園地帯」。ここに鉄道とともに住宅地を整備して、大阪市内への通勤と優れた生活環境を両立させるのが小林一三のアイデアでした。

1-2.郊外住宅地の誕生

郊外住宅地が誕生した背景をみてみましょう。

郊外の住宅地が誕生したのは、産業革命で近代都市が出現したヨーロッパです。過密住居問題が発生したロンドンでは、まず条例によって都市住環境の改善が図られ、さらに郊外の中産階級向け住宅地の建設へと進んでいきました。

ロンドン郊外の鉄道沿線に1875年から開発がはじまった「ベッドフォード・パーク」が、世界初の鉄道沿線型郊外住宅地です。

1-3.「田園都市」という理念

イギリスの都市計画家エベネザー・ハワード(1850-1928)は「田園都市論」を提唱し、職住近接型の郊外都市を生み出しました。

最初の田園都市であるレッチワース(1903年着工)のポスターには「田園の健康」「街の快適」という文句が並んでいました。田舎と都市のいいとこ取りをした田園都市は、まさに「理想の郊外」でした。

ちなみに、日本で一般的な職住が分離されているベッドタウンは「田園郊外」と呼ばれ、「田園都市」とは区別されています。

参照:中井検裕「郊外住宅地の誕生から未来へ」

2.阪急がつくった、鉄道沿線の郊外生活

花のみちの小林一三像
実質的な阪急の創業者、小林一三の銅像(花のみち)

2-1.都市人口の急増と郊外への志向

日本でも明治時代末から大正時代に書けて、大阪や東京といった大都市で人口が急増しました。

1903年と1918年の人口を比較した資料によると、大阪では1903年:約100万人から1918年:約164万人に増加、東京でも1903年:約182万人から1918年:約235万人に増加しています。

こうした人口急増にともなう住宅事情の悪化が、人々の郊外への移転と、郊外住宅地の開発を後押ししました。

参照:高木 和人「明治前期の都市別人口の分析」

2-2.小林一三が考えた沿線住宅地

1905年に開業した阪神電鉄(大阪市~神戸市)は沿線への移住を勧め、1909年に西宮駅前に賃屋30戸を設けるなどしています。

そして1910年に開通した箕面有馬電気軌道(箕有電鉄、現在の阪急)は、日本最初の鉄道沿線郊外住宅地として、池田に「室町住宅」をつくります。

当初は大阪と箕面や有馬温泉といった行楽地を結ぶ「遊覧電車」として計画されていた箕有電鉄。

しかし沿線人口が少ない同社の経営は危ぶまれていました。

そこで専務取締役に就任した小林一三(いちぞう)は、鉄道敷設と同時に住宅地を建設し、住宅事情の悪化していた大阪市民向けに売り出すことを考えます。

(小林一三と箕有電鉄については「電車が結ぶ夢と日常」もご覧ください)

電鉄開業前に作成したパンフレット「如何なる土地を選ぶべきか、如何なる家屋に住むべきか」で、文学青年だった一三はその文才を発揮しています。

美しき水の都は昔の夢と消えて、空暗き煙の都に住む不幸なる我が大阪市民諸君よ! 出生率十人に対し死亡率十一人強に当る、大阪市民の衛生状態に注意する諸君は、慄然として都生活の心細さを感じ給ふべし、同時に田園趣味に富める楽しき郊外生活を懐ふの念や切なるべし。

「東洋のマンチェスター」とも呼ばれる工業都市だった大阪市。一三が自ら手がけた文章は、住居問題・衛生問題をかかえる大阪と、田園地帯の郊外とを対比して、「理想の郊外生活」を印象づけるものです。

参照:旗手勲「日本資本主義の生成と不動産業」

参照:岡田芳郎「経営者にしか書けない広告」

2-3.「理想の郊外生活」、池田に誕生!

一三の手によるの最初の住宅地となった、池田駅近くの「池田新市街」(後に「室町住宅」)。

呉服神社周辺に、100坪という広い区画の一戸建て住宅が、総計で約270戸立ち並びました。

住宅地には自社が発電する電車の余剰電力を送電し、水道も整備しました。

さらに購買組合や社交場、公園、果樹園も整備され、住民同士がコミュニティをつくり、「理想の郊外生活」を営めるような工夫がこらされていました。

中流上層のサラリーマン向けに、月賦払い(分割払い)で購入できるようにした点も画期的で、住宅ローンの先駆けとなりました。支払額は初回が50円、以降は毎月24円の10年払いで総額2500円でした(大正末期の大卒初任給は50~60円)。

参照:阪急電鉄「様々な生活文化を創り出したアイデアマン『小林一三』」

参照:橋爪紳也「生活文化プロデューサー小林一三が築いた大阪急文化圏・梅田、そしてキタの未来。」

参照:レファレンス協同データベース「明治、大正期の華族と庶民の収入を比較したい。」

3.そして郊外は「都市」へ

現在の阪急宝塚本線
現在の阪急宝塚本線

3-1.住宅地の開発競争と沿線イベント

池田に続けて、箕有電鉄は箕面の桜井や豊中にも住宅地を建設しました。

電鉄以外の事業者も住宅地開発に乗り出します。1915年から「岡町住宅経営会社」による「岡町住宅地」の開発が始まったのを皮切りに、電鉄や住宅会社が競って住宅地を開発していきました。

沿線では様々なイベントも行われます。

「豊中運動場」(1913年開場)では、現在の夏の甲子園である「全国中等学校優勝野球大会」の第1・2回大会(1915・1916年)も開催されました。

箕面市桜ケ丘では1922年に「日本建築協会」主催の「住宅改造博覧会」が開催され、コンペ入賞作など25棟が展示され、7万人以上が訪れる大盛況となりました。その際に建てられた展示住宅は売り出され、その一部は現在も残っています。

参照:三井住友トラスト不動産 「豊中・池田・箕面 郊外住宅地開発と教育機関の設置」

参照:山本睦月<第100回 国際ARCセミナー(仙海義之氏)レビュー> 小林一三 ─社会事業・文化事業をビジネスの両輪に

3-2.神戸進出で「阪急電鉄」に

箕有電鉄は1918年に社名を「阪神急行電鉄」に改めます。

1920年に神戸線を開通し、阪神間を結ぶ都市間鉄道になったの時の新聞広告の文句は、

綺麗で早うて。ガラアキで 眺めの素敵によい涼しい電車

というものでした。

阪神間では国鉄東海道本線に加えて、1905年に阪神電鉄が開業しており、最後発の阪急は人口の少ない山沿いに線路を敷きました。

一三みずから「ガラアキ」というのは一種の自虐ですが、空いてる分、車内でゆったり過ごせることを逆に利点として示しています。高所・高架を走るため見晴らしがよいという点もアピールされています。

参照:阪急電鉄「2020年7月16日、阪急神戸線が開通100周年を迎えます」

3-3.住宅地、学園、球場――阪神間のモダン都市・西宮

1921年には西宮北口~宝塚間の西宝線(後に今津線)が開通し、神戸方面からレジャースポットである宝塚へのアクセスが向上しました。

神戸線・今津線の開業後、一三は神戸市内にあった関西学院や神戸女学院の西宮(甲東園や門戸厄神)への移転も実現します。

ウィリアム・メレル・ヴォーリズの設計による美しい建築が特徴的な、これらの学校の存在によって、阪急のモダンな沿線イメージが確立していきました。

参照:土井 勉「1910(明治43)年のTOD」

神戸線と今津線の交わるターミナルである西宮北口では、駅周辺で住宅地開発が進みます。そして1937年には、プロ野球阪急軍(後の阪急ブレーブス)の本拠地となる西宮球場も開場しました。

旧来の西宮市街からは離れていた西宮北口ですが、住宅地と球場、そして学園をそなえた「文化の街」へと発展していきました。

参照:小川裕夫「阪急西宮北口、『球場の街』の記憶を残す住宅都市」

3-4.東京にも広がった郊外住宅地

東京では渋沢栄一らが「田園都市株式会社」を設立(1918年)し、洗足や田園調布といった街や、東京に連絡する鉄道を整備しました。これが現在の東急グループの元となっています。

さらに1923年の関東大震災後には小田急の成城など、私鉄沿線の郊外開発が加速しました。

参照:東急100年史「田園都市事業と鉄道事業」

参照:国立国会図書館「本の万華鏡 第32回 鉄道が変えたコト・モノ 第3章 まちづくり」

まとめ――生き続けるモダンの夢

田園地帯に出現した「理想の暮らし」の舞台としての「郊外」。

イギリスではそれが、ハワードの提唱した「田園都市」などの形で実現し、日本では、小林一三が鉄道沿線住宅地として、そのビジョンを具現化していきました。

一三が郊外開発を通して描いたのは、住宅だけでなく、教育・文化・レジャーまでも含んだ、新しい暮らしのスタイル。

阪急沿線に生まれたモダンな「郊外生活」は、100年を経た今なお、私たちの暮らしの中に生き続けています。

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